釈迦の前世における謎の失踪事件・・提婆達多品第十二【第9月】

釈迦は過去世から共に修行してきた提婆達多について、過去世・現世・未來世の3つに区分して、かつ、まとめて比丘・四…

引用元: 釈迦の前世における謎の失踪事件・・提婆達多品第十二【第9月】

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釈迦の前世における謎の失踪事件・・提婆達多品第十二【第9月】

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釈迦は過去世から共に修行してきた提婆達多について、過去世・現世・未來世の3つに区分して、かつ、まとめて比丘・四衆等へ告げているようです。

過去世について釈迦は、山奥の仙人のところへ生涯を捨てて修行に入った王とは今(現世)の釈迦のことであり、その時の仙人は今の提婆達多であったことを打ち明けていますね。
そして、現世については、その提婆達多が将来成佛することになっている予言の授記を四衆等へ説いています。
そして、未來世について、善男子・善女人で妙法華経の提婆達多品第十二を聞いて素直に信じる者は、地獄・餓鬼・畜生の世界へ堕ちないなどの徳を説いています。

ここで現世の釈迦が比丘・四衆等へ気付かせたいのは、過去世に王だった釈迦の謎の失踪のことでしょう。
ところで、驚きは、一般に伝えられている現世の釈迦もまた最初は王として生まれて、その後若くして、城を出家して佛道に入られたということです。
つまり、ここで現世の釈迦の伝説の真相は更に過去世の因縁と同じことを繰り返すように生まれてきていることにあったのです。

現世(但し、西暦前)に再び王として生まれて来た釈迦は、そこで再び王の座を捨てて城を出たのです。
そこで問題となってくるのは過去世における釈迦の修行は恐ろしい山の仙人のところへ失踪し、世間では城を残して居なくなった王は謎の神隠しに遭い、捜索を続けても行方不明であったということです。

過去世に於て、王であった釈迦の居なくなった社会では、一体どういう変化が起きていたかということが現世の釈迦の完全な悟りを決定しているといえるでしょう。

⇒ http://bit.ly/1NZSrUz

如来の滅後(滅度)とはどういう意味なのか?・・安楽行品第十四【第六月】

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とかく法華経では、如来の滅後(如来が全ての寿命を尽くして滅盡して存在しなくなった後)のこの世に暮らす衆生世界の恐ろしさを実に強調しています。
ところで如来にも私たち人間などと同じように寿命というものがあるのでしょうか?
法華経の中で釈迦は盛んに多くの弟子たちへ授記(死後、佛に成れることの約束、或いは予言)を行なっていますが、その授記内容は修行者一人一人が異なる内容であり、将来成れるという佛の名前やその寿命期間などを別々に言い渡しています。
 
ですから、弟子たちが将来死後になれるという佛は皆同じ佛なのではなく、各々のそれまでの修行の在り方などに応じてすべては別々の佛に成るのです。
そこでさらに疑問となるのは佛と如来とは果たして同じなのかということです。
実は法華経の中では通常、如来の十號(十種類の佛の呼び名)を持つ佛と更に別に佛陀という名號を持つ佛とが混在しているようです。
両者はどちらも佛といわれているようですが、どうやら如来といわれるのは十號を持つ佛だけに限られるように思えるのです。
 
如来も佛陀も同じく佛の立場である限り、どちらもこの世の救済のために存在しているわけですが、その内、如来は舞い降りて来てこの世を支配する悪を滅ぼすための重要任務として君臨することが義務として決められているようです。
それに対して、佛陀はこの世の衆生と共に実際の佛道の修行をしてみせながら、いわば模範を見せながら救済を図っているという点がどうやら違うようなのです。

よって、この法華経に登場している釈迦牟尼佛が明らかにどちらであるかは実のところは解からないのです。
どちらにしろ、佛の滅度とは佛の寿命が尽きることであり、佛の寿命がある限り、私たちはたとえ種類は違えど救済されているということになるのでしょう。
尚、如来の滅後の悪世とは、如来は悪世を正しに君臨に来ているのですが、悪世を正し切れずに寿命が終わるということも時にはウルトラマンのように有り得るという、元々の自然の定めの時が訪れるということなのでしょう。

⇒HP;本日のブログへリンク
http://jouan167.jimdo.com/2014/11/12/新しいブログを書く/364064491

『正しく恐い、それが本当の仏様の真実』・・薬草諭品第五(3)

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第三月目 第5日のDM説法
  
通常、私たちは仏様を見たことはありませんよね。
もし見たことがあるとしたら、それは幽霊や亡霊現象ということになりますよね。
ひょっとしたっら、その通りであって、佛の真実の姿の状態とは幽霊や亡霊そのものだったりするかもしれませんよ。
  
しかし、私たちが通常に教えられている仏様のイメージとは、誰に対しても公平でどこまでも優しい、どんな罪も許すような心の広く平穏な印象ですよね。
   
では、どうして私たちは仏様がとても優雅で心優しいイメージだと印象付いているかといえば、それは何を隠そう、お寺の住職さんのことを仏様のイメージと見なす傾向があるからでしょう。
  
第3-5日 Vol.61  世に出現すること大雲の起るが如く 【薬草喩品第五】(八~十八行)

『先細り続ける釈迦の末法』◆信解品第四(3)

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第三月目 第4日のDM説法

法華経を生き物のように感じれることは出来ますでしょうか?
現代の常識ではないけれど、確かに現代そのものを動かし続けているのは法華経なのだと思えています。

第3-4日 Vol.60  我等をして三界を出で 【信解品第四】(九~十四行)

方便なくては難しいこともあると思います♡譬喩品第三(3)

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第三月目 第3日のDM説法

釈迦は一佛乗の大乗のみが真実の教えであると確かに公言しています。
しかし、なぜか三乗の教えの必要性も同時に説いているのです。
それは、釈迦が舍利弗を叱ったように、一佛乗は通常の者にはとうてい理解が難しいために、あえて将来に一佛乗へ誘うように、先ずはわかり易い三乗の教えを説いているという意味だったはずです。

第3-3日 Vol.59  必ず大乗を以て度脱せらる 【比喩品第三】(八~十五行)

ウソも方便とは法華経のこと?・・方便品第二(3)

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第三月目 【第2日】のDM説法

ウソもつけば、運もつくものだという通常の経済や社会の常識にも適うことでしょう。
これが法華経による功罪なのかどうかは大なる検討課題なのでありましょうが、ここまで長く続いてきた法華経を今になってどうのこうの検討する余地もありません。

しかし、今現代のこのようなウソのまかり通る状態が、実際には法華経の存在に根本理由があることを知るということが一番重要一大事なのであります。

第3-2日 Vol.58  止みなん、復説くべからず 【方便品第二】(十二~十七行)

新体制へ再び従来の菩薩道を導入する釈迦牟尼佛☆序品第一(3)

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第三月目 【第1日】のDM説法

阿羅漢というお金を得れる仕組みを保有する格付けこそ、当時の新しく考え出され運営され出していた新組織体制であることを今一度はっきり認識してかからなければなりません。

その阿羅漢という新組織体制へ釈迦は先ず指導に乗り込んだことが重要なテーマになっているように思うのです。
そして、釈迦はその阿羅漢弟子以外の実際の姨母や妻を学・無学人の中に所属させていたこともまた重要なヒントなのです。

第3-1日 Vol.57  学・無学人および菩薩摩訶薩も倶なり 【序品第一】(七~十六行)

『三遍廻って頭を下げる儀式』・・普賢菩薩勸發品第二十八(2)

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第二月目【第28日】のDM説法

「右に繞(めぐ)ること七匝(しちそう)して」という表現に対しこの法華経中では七匝だけでなく三匝するという場合もあるようですが、よく法華経の中に時々出てきてますね。
これは、釈迦などの佛に対し菩薩が挨拶する時の決まりきった作法であるかのようです。

ところで、三匝と七匝があるようですが、この三や七の表現は、何となく、三宝や七宝などを動作に表している作法かと思えてきます。
そこで、調べてみますと右繞三匝という語があって、古くからインド仏教に伝わる礼式の一つで、仏の周りを右回りに3回まわる作法であるとだけ書いてあります。
古くからの伝統作法のようですが、右繞七匝という語はないようです。

ところで、右回りに3回或は7回まわるというのは、どういう意味でしょうね?
3回まわってワンと言え、なんてからかい遊びは昔の日本の子供にはありましたね。

こういうのは、佛に対して謙遜して頭が悪いように見せるというより、佛に対して何か義務責任を持って提供している意味の作法であるはずですから、素直に日本的に考えれば、この三匝・七匝とは、お辞儀やお礼を重層に重ねてしているということでしょうね。

また、あえて右回りという表現は、たとえば、佛に直接向ける大事な頭を形だけでなく、考えを皆右回転にそろえなさいという感じでしょうか。

そもそも釈迦などの佛は、右と左の違い、その他上下前後など各々の別々な位置や方角の性質を見抜いていて、その違いに非常に拘りをもつ古くからの伝統様式をとても貴重に考えていると思えますね。

ところで、三宝と七宝のことですが、三宝とはいわば佛・法・僧という無形文化財のようなものであって、七宝とは七つの宝石など現物固体の宝物をいうように思えるのですが、普賢菩薩の場合の作法は七匝を定型としているとすれば、おそらく、普賢菩薩の宝威徳上王佛の国では、現物としての七宝のほうをとても重要視する風習のあるお国柄なのではないかと思います。

そのように考えますと、王佛という王様がそのまま佛であるような国では、王様の財宝主義な考えが中心であって、どちらかというと三宝より七宝を大事にする習慣を重んじていることが伺えますね。

「 4. 今 日 の 知 識 !  (道)」より

第2-28日 Vol.56  遥か、法華経を聴受するために来たり 【普賢菩薩勧発品第二十八】(二~八行)

『荘厳を特徴づける法華経』◇妙莊嚴王本事品第二十七(2)

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第二月目 第27日

荘厳とは、よくこの法華経の中で出てくる語ですね。
これは、おごそかに仏国土や仏などの外見である形や身が大そう立派に装飾されている豪華な様相のことをいうそうです。
特に法華経に於ては、この荘厳をやたらと大胆なモチーフに用いることが大きな特徴でもあるように思えます。

何かと、地道に思える仏道の法において、過激で過上な飾り立てはあまり好ましくないように思われますが、その常識概念の心理の逆を付いて、大いに装飾そのものの持つ、本来の貴重さや利点を十分に、かつ大胆に活用してみせる価値観の真実への道を切り開いたのも、釈迦或は法華経の桁はずれに可憐な凄さなのだと思います。

「 4. 今 日 の 知 識 !(道)」より

第2-27日 Vol.55  妙荘厳王の夫人淨徳と二子淨藏・淨眼 【妙荘厳王本事品第二十七】(四行~十行)