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とかく法華経では、如来の滅後(如来が全ての寿命を尽くして滅盡して存在しなくなった後)のこの世に暮らす衆生世界の恐ろしさを実に強調しています。
ところで如来にも私たち人間などと同じように寿命というものがあるのでしょうか?
法華経の中で釈迦は盛んに多くの弟子たちへ授記(死後、佛に成れることの約束、或いは予言)を行なっていますが、その授記内容は修行者一人一人が異なる内容であり、将来成れるという佛の名前やその寿命期間などを別々に言い渡しています。
 
ですから、弟子たちが将来死後になれるという佛は皆同じ佛なのではなく、各々のそれまでの修行の在り方などに応じてすべては別々の佛に成るのです。
そこでさらに疑問となるのは佛と如来とは果たして同じなのかということです。
実は法華経の中では通常、如来の十號(十種類の佛の呼び名)を持つ佛と更に別に佛陀という名號を持つ佛とが混在しているようです。
両者はどちらも佛といわれているようですが、どうやら如来といわれるのは十號を持つ佛だけに限られるように思えるのです。
 
如来も佛陀も同じく佛の立場である限り、どちらもこの世の救済のために存在しているわけですが、その内、如来は舞い降りて来てこの世を支配する悪を滅ぼすための重要任務として君臨することが義務として決められているようです。
それに対して、佛陀はこの世の衆生と共に実際の佛道の修行をしてみせながら、いわば模範を見せながら救済を図っているという点がどうやら違うようなのです。

よって、この法華経に登場している釈迦牟尼佛が明らかにどちらであるかは実のところは解からないのです。
どちらにしろ、佛の滅度とは佛の寿命が尽きることであり、佛の寿命がある限り、私たちはたとえ種類は違えど救済されているということになるのでしょう。
尚、如来の滅後の悪世とは、如来は悪世を正しに君臨に来ているのですが、悪世を正し切れずに寿命が終わるということも時にはウルトラマンのように有り得るという、元々の自然の定めの時が訪れるということなのでしょう。

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